昭和47年4月16日  朝の御理解

御理解50節 とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。


 常平生からの信心が肝要じゃ。常日頃、しっかり信心をさせてもらえと。えー、常平生からの信心が肝要じゃということは、常平生から、あー、地を肥やすところの信心でなからなければならないということ。ただ、常平生、一生懸命拝みよりますと、もう、教会にはお参りはできませんけれども、うちからはしっかり、拝みよりますと、おー、言うのでは、地は肥えません。まあ、そこで、ここで、地を肥やせと仰る。地とはどういうことかと。これは、あー、んー、まあ、いろいろに頂けるでしょうけれども、んー、間違えなく、うー、これが地だと言えることは、天地です。いわいる、天地へのこれは、還元。ね。天地へ還元する。

 次に間違えのないことは、えー、先祖に対するところの、仏教で言うなら、供養とでもいいますか。先祖を大切にすると言うこと。これは、いわいる、家の根である。ですから、その先祖の一番、手近なところにあるのは、親である。だから、親を大切にすることのできないような信心者では、信心者としての値打ちはない。親を粗末にでもあつかいよって、いわいる、おかげが受けられると思うたら、あてが違うと。ね、それは、言うなら、親は家の根だから、ね、親につながるところのいわいる、うからやからの御霊たち、いわいる先祖ということになる。

 次にまた間違えのない、地を肥やすということは、いわいる、心である。ね、この3つは、いよいよ間違えのない、根であります。そこで、まあー、思うんですけれども、なるほど、天地への還元もよかろう。ね、天地へ還元していくということ。この天地への還元だけを、まあ、看板にしておるような、あー、宗教もありますね。いわいる、お供えです。さっさとお供えするは、ことは、天地へ対する還元だと言うふうに言いますね。それから、あの、先日から、何回も話ましたけれど、霊友会という信仰宗教がありますが、あー、相当に、えー、やはり、えー、全国に信者をようしておるというくらいですから、ずいぶんやはり実力があると思うんですけれども、これはもう、てっとう鉄意?ご先祖の供養ということである。ご先祖の供養すれば、病気が治る。ご先祖の供養すりゃ、あー、運命が変わってくると。もう、てっとう鉄意?それを解いておりますね。けれども、んー、なるほど、病気は治る、あー、運命が変わるというても、人間そのものが変わっていない。

 ね。いわいる、人間そのものの助かりということには、なってない。いわいる、心の助かりだ。ね。そこで、私が一番最後に申しました、いわいる心です。心を肥やすということです。ね、心を肥やすということは、いよいよ心が豊かになり、美しゅうなり、んー、いたしますと、これは、親は大切にしなければおられんのであり、先祖は大事にしなければおられんのであり、同時に天地に対する還元は、もう、それこそ、そうさせてもらわなければおられないことになってくる。

 まあ、それをお道流に言うとです、おかげを頂きゃ、御用頂かなければおられんのである。お道の信心によっておかげを頂いたらです、ほんとに、ご先祖様は大事にしなければおられんのである。ね、もう、それはもう、やむにやまれん思いでそういう、心というものは、あー、つのってくるもんです。もう、ほんとにあのー、それはほんとに素晴らしいことです。信心が燃えてまいりますとね。いわいる、心が、いわば、心がだんだん肥えてまいりますと、そうしなければおられないのである。

 先日から、久留米の佐田さんから、お届けがあっております。どうでも、私共がこのようにして助かっておるのですから、やはり先祖もどうでも助かってもらいたい。ためには、どーでも、今改式しとかなければ改式する、もう、待たれない。親戚であり、子供達には私が言おうと、お母さんが言われる。(  )さんにも、私が、(   )おり、もう言うと同時に、あたしがお寺さんにはこうして改式するからということをゆいにいこうと。とてもこれは、勢いのあるときじゃないと、できるこっちゃない。ね。そぎゃんところがです、やはり燃えてきませんとね、いや、心がいよいよ豊かになるというか、心が肥えてくるというか、そういう自分、助かっていく自分がです、ね、自分だけの助かりではもう、勿体ない。先祖が助かってもらわなければ。私はそのことを聞いて、素晴らしいと思いました。
もう、前々から話があって、まだ時期じゃない、時期じゃないということでした。改式したいと言う願いがあってましたけれど。
ところが、最近その、おばあちゃんがどーでも、早く、子供達には私が納得させる、お寺さんにも私が行こう。今度、お宅祭り前に、どうでもそのことだけは、なしておきたい。ご神前の、お、間を一部屋作らせて頂こうと、決まったけれど、それでもまだ時期が早いと頂いた。そこで、現在の(  )をつぶして、えー、そこに零社を作ったり、あの、お宮をお祭りしたりすることを、変えようと言うことだったけれども、それもいけない。ただ、今お神様をお祭りしておる、一軒とこの床の間に、えー、神様をお祭りし、御霊様をお祭りするようなふうに、させて頂いて、あーた、あなたに、えー、お神様の部屋を作るという、のときにはもっと、まあ、言うなら、どうどうとしたおかげ頂けるようなって、どうどうとした、お宮、お神様をお祭りするがよかろうとゆう、ことじゃなかろうかと、まあ、思うのです。お許し頂くところを見ると。

 ほいで、もうさっそく、そのことに取り掛かっておられるわけでございますけれども、ね、信心がだんだん分かってくる、分ってくるということは、信心が頂けてくるということなんです。ね。もう、地のにくの中に、入ってくるんです、信心が。一家中が有り難うなってくるんです。もちろん、一家中で、それに反対する者、一人もないけれども、やはり子供たちやら、親戚やら、が、やはりあるから、それにも納得させなければならない。それを、おばあちゃんがわたしゃ、自身があると。お寺さんにもまた、今度改築があって、そうとう金額が規模をゆうてきとるから、そのきりを最後に、これで、改式させてもらうからということを、私が言いに行こうといわれる。えらいと私は思いますね。ね。

 これはね、ほんとに自分の信心が肥えて、お道の信心がはえっていかなければ、言えるこっちゃないです。自分がほんとに助かっていきよるんだから、先祖が助かってもらわなければ、おられんというのですよ。お道の信心によって、ゆうなら、お道に信心によらなければ助からんと、確信しておられるわけです。また、事実がそうなんです。

 ね、ですから、言うなら、地を肥やせというその地ということは、根ということであろうが、天地への還元も、先祖への供養も、ね、心の方が肥えてくるならば、それは、なさなければおられないことになってくるのですから、一番根本になるのは、心だということになるわけです。

 ならそこで、最近、えー、若先生がもう、誰からなしに解いておることは、心があることを認めるかと言っております。あなた、心があるということを。ね、心の確認である。心の確認ができたら絶対、信心にならなければおられんのである。教えを頂かなければおられんのである。心確認できずに、ただ、おかげだけを願っておる信心じゃだめだと。まずあなた、自分自身の心のあることを認めるかと。最近私がそういうふうに言っておりますですね。なにか、感ずるところがあって、自分自身もようやく今、心の確認がでけてきたのかもしれません。素晴らしいことだと私は思うですね。
 心が、心がね、私今朝からご神前に頂きましたら、あの、で、頂いたことは、「心が変われば、人相が変わる。心が変われば、手相が変わる。」私なんか、ずいぶん変わったです、手相が。ね、これは、心の確認をしておるからです。しかも、その心が確認がでけたら、その心がいつも穏やかであるように、有り難く、有り難くなれることのために精進する。そのんために、改まることにしゅ?、心があることが確認できたのですから、その心を大事にしなければおられなくなってくるのです。ね、心を大事にすることなどに、感心が無いなら、あると言いよっても、心があるということを確認しとらん証拠です。

 おかげは和賀心にありと、こう仰る。その、心にあるのですからね、心の確認がまずできなければできんのです。もうね、あの、ほんとに心の確認がでけたらです、心はもう、それこそ、大事に、大事にしなければおられません。悔やむ心、不平不足を言う心、心配な心、ね、それこそ、ずるい心、汚い心、横着な心、心という、たくさんありますよね。そういうような心をです、ね、とりはずしていくというか、ね、それを改まっていくというか、そうしなければおられんのです。心を大事にしなければおられない。だから、手相も変わり、人相も変わってくるのです。いわいる、運命が変わってくるのです。ね。

 私は、ほんとに最近、若先生が自分自身感じておることであろうと思うんですけれども、心の確認をまずしなければいけません。心があるんだということ。ね、こりゃい、医学のうえ、上では、分らんのです。てきせつ?することができません。ね。内臓の一部と言ったようなもんじゃないです。けれども、確かにあることだけはあるのです。ね、それをいよいよ確認するということ。心があるということを確認する。

 昨日はね、2・3日前、お届けがあっておりましたけれども、私は、実際実物を見せて頂いて、なるほど、魂という世界があって、お互いの魂、いわいる、心なんですよ、魂とは。魂とは、こういう不思議な働きをするもんかと言うことを、目の当たりに昨日、見せて頂きましたですね。あのー、椛目の内田さんのところの三番目の息子、(しゃか?)をしよりますとが、今嫁さんもらって、今子供がおります。だから、今小倉の方へ行って、嫁さんが今、もう、どうでしょうか、もうずいぶんお腹が大きゅうなっておりますけれど、おー、妊娠のおかげを頂いておる。一月あまり、小倉の方へ主人の方は、で、うちの方で家内は一人、まあ、待っているわけです。
 先日、椛目にやってきてから、もうお母さん、ちょっと不思議なことがあるというてその、なんかこう、持ってきた。それが、あの、布団、布団のカバーなんですね。布団、布団のカバー、うわ、き布団のカバーなんです。自分ところには、すみやらすずりやら、もないですよね、また、(せんこうもん?)のあれですから。それにね、おー、き布団のそのしきぶ?にですね、もう、すかっりそのまま裸体の裸の姿がうつっとるです。ほんなこて、もう、びっくりするよ。まあ、帰ってからでもとてもできないという、それでまあ、いろいろですね、どうかこう、なんかが落ちて、シミが出来たじゃろうか、なんじゃろうか、そういう、そのなんじゃ全然ない。もう、とうとう、あのー、おー、その、気持ちの悪ーなってからね、もう寝らんであくる日、お母さんのことろへ持ってきたわけです。

 その、お届けがあっとりましたけれども、私もそう、その心動かされなかったけど、昨日実物を見てからですね、えー、それが例えば、あのー、私は実際に、久留米の総代さんの池松?さんっていう総代から見せて頂いたんですけれども、あの、幽霊写真というのがありましょうね。霊しんが映っておられる、東京に、学校にいっとった、あー、大学生が、急死した。お父さんとお母さんが、映られる写真にパッと入ってきて、三人うつっとる。だから、魂の世界を(否む)ということはできん。それはまあ、もちろん、魂の世界を、うんぬんすると言えば、もう信心は、うんぬんすることと同じことなんですけれどね。
 ね、まだ新婚の、おー、夫婦がですね、いわいる一月も別れておって、それこそ、もう、一生懸命に主人のことをおもう。はー、どうしとるじゃろうかと思うて、家内が一生懸命、主人のことを思う、主人もまた家内のことを思う。ね、いわいる思いです。心が通うた、もう、そん、心が、一つになったんですね。そこで、そこに不思議な現象がある。(ひとんのはね?)ちょうどお腹が大きいように(   )、片一方んとは。片一方とは、その全裸体の姿です。そして、その横に、黒く固まりのように、ちょっとこう、足がこうあるといった感じ。そのお腹ん中の赤ちゃん。
 
 私はそのことを、ほんとに不思議なことがあるもんだと。けれどもまあ、同時になにかその、えー、悪いことのあるお知らせじゃなかじゃろかというて、心配されますから、そのこと神様にお届けさせてもらいましたらね、「林」という字を頂いた。林。木を二つですかね。心が二つです。それがつながっとる。ね、思い、思われるということ。そういう、心が、そういう一つの現象を現しとる。ひとつまだ、なんじゃい、かんじゃい分らんとは、これまたお腹のなかなか?。親子三人のね、心がそこに表れてるという。それは、どういう都合か分りません。ね、どこででもおこるということでもありません。その、なにかの、例えばここでなら、あの、おいさみなんかを頂くのもそう。まだ、分らんです。どういうこと、何のため、どういうことなのか。というように、なんやそういうその、現象が、そういう不思議な現象あるかということをです、わ、分りませんけれどもね、それで例えば、心が通うということは、心があるということは、認めなければいけないです。

 私は、こう、どうのこうの写真にとっとけば、撮らせよう、昨日持って帰るというけど、もうちょいそこにおいときなさい、というとるけ、確か、おいとりますから、帰りにどうぞ、ご覧下さい。私は、こっちから見ましたから、逆さまに見とるわけですけども、こちらから見た方がほんとに、その人体と感じられるですね。反対から見た方か。ね、というようにです、そういう例えば、あの、不思議なことを通してからです、心というものが、魂というものがね、なら、あることを、まあ、お互いが分らしてもらうわけですけれども、ね、信心させて頂いてです、本心の魂を磨くものということ。本心の魂という。いわいる、自分の心を磨くということ。ね、清めていくということ。ね。

 それもです、いわいる、心の確認がまずなされなければ、清めることも、磨くことも、よういたしません。まず、心の確認。とかくに、信心は地を肥やせ、ということは、まあ、その地ということは、いろいろに、まあ、申しましたけれど、ね、一番根本の地ということは、心ということだと。とかく信心は、心を肥やせということなのである。それには、まずその、心を肥やすなら、心を肥やさなければ、おられなくなってくるようにです、心をまず確認しなければならない。はっきり、自分の心を。そして、自分の心の浅ましさというかね、汚さというか、ね、見苦しさというものをまず、気付かせて頂いて、その、見苦しいところ、汚いところをです、ね、いわいる和賀心を目指させて頂くというのがそれなんです。

 ね、お互いまず、認めておるようであって、確認がでけてないその心。改まることに一生懸命でないならば、磨くことに一生懸命でないならば、自分自身を本気で見つめる心がないとするならばです、まーだ、心を本気で、いわば認めておるとはいえないです。ね。
そしてです、人相が変わっていくこと、手相が変わっていくことをです、楽しみに信心させてもらう。もう、それこそ、ひとりでに物が出来るようなものである。ね、願わんでも、頼まんでも、必要な物は神様のほうが先回りをしてから、おかげを下さる。ひとりでに物がでけておるのです。合楽の場合はそうです。ね。

 常平生からの信心が肝要じゃということは、信心とは本心の魂を磨くものぞや。信心とは日々の改まりが第一じゃと、言うその、第一であるという、本心の魂を磨くということが、信心なのだとしらないけません。拝んでおることが、参っておることが、信心ではありません。本心の魂を磨くことが、信心なのだ。日々の改まりを、改ら、りを、に精進させて頂くことが、信心なのです。ね、そういう信心が、肥えてこなきゃ、そういう信心が、豊かになってくる。肥えをせいでも、ひとりでに物が出来るようなおかげを頂くために、ね、是非、心の確認をまず、させてもらって、ね、その心をいよいよ大事にさせてもらう。ね、いよいよ、磨かせてもらう。改まらせてもらう。

 ほんとに、その磨くこととか、改まるとか、自分がどこを改まったがよいじゃろかというなら、あの、心が薄ーい人はね、まず、心の確認がでけとらんと思わないけませんよ。心の確認がでけたら、もう、そうしなければおられない。ばからしかです。この心が、ね、いわいる安全の地に住む、心が住む、どんな場合であっても、ね、いうならば、ね、有り難いというかね、悔やむ心もおこってこない。不平不足をいう心も。もちろん、人をいじめるとか、こなすとかといったような心は、なおさらない。ね、人で、自分の心で人を傷つけたり、人の心を殺したりするようなことは、なおさらない。ね。そういう、私は修行をさせてもらう。ね。

 最近は、梅の花の信心ということを、まあ、一口づつ頂いておるわけですけれども、ほんとに、いよいよ梅の花の信心をさせて頂くのも、その根底としてです、心の確認がなされてから、でなからなければ、できますまい。ね。そこで、なら、合楽の田中さんが言われるように、ね、梅の花とか、香りとか、実とか、花とかと皆さんは言われるけれども、私の場合はまだまだ、信心が幼稚ですから、それを育てるというところから、梅の木を育てるというところから、いかなきゃならんと思いますと。その、梅の木を、育てるためには、もう大便が一番だと、もう、ほかのなー、梅の木だけは大便のなかにいかんということ。を聞きましたが、もうそれこそ、大便のような汚いもの。どういう、例えば難儀があっても、汚いことがあっても、嫌な問題がおこっても、それを、梅の木が今育つんだ、梅の木に今、肥料をやってるんだと思うて、頂いていくことに、させて頂く気持ちを、この頃、お取次ぎして、なさっておられますけれども。

 ね、これは、やはり心の確認ができる、できなければ、それはできません。心の確認がでけたら、そのことをなすことが、楽しいことになってくるでしょ。有り難いことになってくるでしょ。もう、間違いなし、その、梅の木は、大きく育つことでしょう。そして、たくさんの花をつけることでしょう。たくさんの花が、つくことは、たくさんな実が実るということにもなるのですから。ね、そういう様々な、工夫をそれぞれさせて頂いて、ね、確認したその心をいよいよ大事にしていかなければいけないと思うですね。どうぞ。